近隣公園の個人論
公園での子どもたちの声が、聴こえなくなって久しい様な気がしたり、その良し悪しは別にして早朝のゲートボールの風景も過去の遺物の様な気もします。
ブランコやジャングルジム、滑り台すらも危険だからと言われてか撤去されて、朽ちかけた鉄棒が誰も訪れなくなった公園に、威勢の良い雑草に囲まれて本当に寂しげな公園が、目立ってきたような気もします。
公園ではしてはいけない規制や注意の看板も朽ちかけていて、行儀のよい近隣住民はまるで、進入禁止の禁忌あるいは聖地の様に近隣公園を傍観なのか無視なのか、まるでブラックホール否、ブラックボックス状態の近隣の公園という風情。
そこには、市税も投入され、自治体で定期的な管理もされていて、つまり予算と住民の手間も投じられている。その公園では誰もいないけれども今なおボール遊びは許されないし、花火はモチロン自転車の進入さへ拒まれる・・・という事はヤッパリ聖地?
子どもたちの歓声は、近隣の住民にっとては騒音と同じで公害扱い、もうベッタン(メンコ)、ビー玉、ゴム飛びを楽しむ子どもは皆無で、もう昭和世代のアーカイブ。
時代格差の主張なのか、住み分けを強要する小さな世代間論争なのか・・・。
さて、理想的な公園には、年齢の区別なく誰もが訪れ、鳥の声や犬が走り回っていたりして、そこには優しい境界線があって誰もが出入り自由で、そこで気を休める事の出来る居心地の良いパブリックな場所であって欲しいという思いがあったりもするのです。
乳母車の近くでボール遊びは確かに危険だし、花火には火の用心は当然だし、自転車は事故も起こす。だからと言って、近隣クラウドは神の声、多数決原理で公園は雑草ぼうぼうなのは、何か本末転倒な殺風景。むしろモラルの問題なのかもしれません。
何とかならないモノかと思いました。モラルは養育や一つの掟で、言葉が通じなくても守っていきたい常識。常識を知らない人に、優しく話してあげられる会話の力も必要なのでしょう。
公園をある意味活性化させたいモノです。例えば、ジモピーの物々交換会場やドッグラン、等々を期間限定でとか、小さなイベントとか香具師の皆様が人目を引く様なアノ夜店にあった魅力的なひと時とか・・・?
寒い日には、今どきの新しい方法で近隣の有志が集まって、焼き芋を公園で安全に楽しめる会とか・・・?大人の皆様ならチョッピリ恋しくなるアルコールも開放してくれて自慢話や武勇伝、漫才や落語とか・・・?
町々の個性が産まれる公園になったら好いかもしれません。
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